昭和47年5月5日 朝の御理解
                         中村良一
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」



神からも氏子からも両方からの恩人と、教祖様のことを、そのように、神様は言うておられます。ですから、恩人の言うことならば、いわば、いけないことでも聞かなければならない、言うなら、義理が生ずるわけです。まさかの時には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげは授けてやると仰る。というほどしに、教祖金光大神の信心は、本当に、素晴らしいと言うかね。もう、後にも先にも、そういう方は、出られないだろう、というほどしの、教祖様のご信心内容というものが、素晴らしかったと。そういう、例えば、素晴らしかった、教祖金光大神の言われることを、私共が、素直に聞かせていただく。なかなか、けれども、難しいですよね。素直に聞くという事。そらもう、「はい」と言うとけば良いんですけれども、例えば、返事だけの「はい」ならね、見やすい。簡単な。けれども、それがその、死ぬか生きるかといったような大変なことの場合なんかの「はい」と、なかなかね。
例えば、御理解八十五節にありますね。「女の身の上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。」何て、こらもう、女の方にとって、こらもう、大変な事じゃなかろうかと思うですね。この通りにするという事は。ほらもう、今まで、例えば、妊娠のおかげを頂いたら、その、帯かけなんか致しましてね。ちゃんと、わざわざ、その、お産が軽いようにと言うて、ま、戌の日を選んで、帯かけを致しましたり、えー、最後の所の、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。こら、例えば、私のほうでも、随分、もう本当に、このとおりの事をさせて頂いた様にあるけれども、この、平日のとおりといったようなことやらは、出来てません。そらもう、私の母が、喧しかったですから、家内なんかはもう、何十日ですか、もう、絶対、動かさせません。ね。何とかね、こう、身体の血が狂うとか何とか言うて。けれども、例えば、教祖様の、そういう天地のご信用を受けておられて、しかも、その天地の親神様から、お受けになられておる御教えを、私共に、伝えて下さると、けども、なかなか勇気のいる事です。やはり、「はい」という事は、そのように、難しいことだと。もう、本当に、あの様なところを先生任せで、通り抜けて来たと言う体験を持ってる人達は、みんな、それを、後から考えてみると、本当に、こんなに見やすい事はない。親先生が右と仰ら、「はい」と言うときゃ良いし、左と仰ら、左のほうを通ってくれば良いことですから、こんなに、見やすいことはないのですけれど、実際は難しい。そうしたらもう、つぶれはせんじゃろか。そうしたら死にゃせんだろか。そうしたら、かえって、悪い事になりはせんじゃろかと言うのが、先に、また、走りますからね。言うならば、金光大神のいう事にそむかぬようにね。例えば、ここにあります、例えば、今の事だけでもです。実をいうたら、そのように難しいと、ね。まして、例えば、簡単な、まぁどうでも良いことを伺いするくらいな、もう、親先生任せで、右と決めよう、左と決めようぐらいなことなら良いですけれどね。
今度、信心実習やない、松栄会の入殿がございましたからね。会長の堤さんが、毎年、どっかから、来てあるですよね。三日の夜からです。で、今度は、その、日にちを変更したいと、こういう訳なんです。どうしてやと言うたところが、青年会長の、秋永嘉朗さんが、いわゆる、会長会という、青年会の会長の集いが、甘木教会で、その、泊りがけである事になってるから、会長がおらんなら、どうにもいけないから、そうして下さいと、あの、日にちを変えさせて頂きたいと思いますからというお届けがありました。だから、私が申しました。ね。もうこりゃ、合楽の流儀じゃんね。もう、こうと決めたらこう。そりゃもう、降ろうが照ろうが、そこん時、けれども、こりゃもう、合楽の、一つの流儀のようなもんだから、そら、変わらんが良いよと。嘉朗さんが一人おらんでも、出来んことはなかろうがち、ね。青年会長だから、たって、居らんといけんと、こう言う訳なんです。けれども、まぁ鶴の一声、そう頂いたですから。そんなら、そう致しましょうと言うて、あくる日です。嘉朗さんが来とりますもん。嘉朗さん、来とるじゃないかと、私が聞きましたら、向こうのほうからね、日にちが変更したち言うてから、通知があった。はぁ、本当にもう、なるほど、神様任せになっとりゃ良いなと。だから、そういうことぐらいならね、まぁ、皆さんがね。そうした体験を、そういう風に、はっきり頂くならです。もう、すべてのことに、なるほど、親先生が言わっしゃる通りにしときゃ良いなという事になるのですけれどもね。そいう事ばっかりではない事もあるのです。お任せして行きよれば、行きよるほど、こりゃ、かえって、困った結果になって行きよるじゃないかという様な所もあるのです。まして、それが、命にかかわるといったような事などはね。こりゃ、やっぱ、大変なとこなんです。ね。
ですから、その、なかなか、金光大神の言うことにそむかぬ様という事も、難しいけれども、まぁ、徐々にです、ね。そういう体験を積みながら、おかげを頂いていくことにならなければならんのですけれども、ね。その、金光大神の言うことに、そむきよったら、まさかの時には、金光大神助けてくれという事は言えないかと言うと、そうではないです。ここでは、そう、言うておられますはね。日頃、金光大神の言うことにそむかぬように信心するという事は、もう、大変な、言うなら、難しいこと。一遍に出きる事じゃない。次から次と、体験を積んでいっても、なかなか、やっぱり、昔の人が言うとった通りの事をせにゃ、やっぱ、気持ちが悪かったり、ね。もう、そりゃ、本当に、「はい」というぐらい簡単な事はなかろうごとあるけれども、事実は、やはり、難しか。やはり、我情我欲を取らなければ、いわば、場合によってはもう、命までも、あなたに任せなければ出来ることではないほどしに難しい。
私は、昨夜から今朝まで、あの、こんな実感が、まぁ現在してるんです。はぁ、神様は、こげなことまで聞いて下さるなら、もう、何でも、思い出し切り出しもう、何でも、出来る範囲のことはもう、願うとかにゃいかん、頼んどかにゃいかんという事です。こら、まさかの時というだけの事じゃないですけれどもね。休ませていただいて、ふっと気になることがある。誰々さんの事を,こうやってお願いをする。今朝からもそう、それが続いておりますけれども、私の休んでおる、床柱にですね。私が、もう、寝よってから、だからもう、楽しみのごたるです。寝る前に、こうやって、ちょっと考えて、誰彼の事を、ちょっとこう思い出す。はぁ、あの人はほんに、あげなお願いしよったけんで、あら、どげんなったじゃろかと思うて、また、ちょっと起き上がってから、お願いをするんです。もう、その柱に、一遍一遍にオイサミがつくとですけん。それもその、パチッというのじゃなくて、それこそ、カチッという様なオイサミが付くのです。私は、思いましたねぇ。これは、何でん、願うことだけは願うとかにゃいかんな、気にかかる事があるならばと思いました。願いということは、そのように神様が、いちいち聞き届けておって下さるとです。もう、今朝からの、神様、御霊様のほうでもでしたけれども、もう、私が願うことに対して、いちいち、神様が、オイサミくださる。はら、本当にもう、願うとかにゃ出来んと、私は思いました。ね。そうして、私は、その願いという事を、聞き届けていただかなければならないし、その、願う心のことです。おかげは和賀心にありと。和賀心にあるとこう仰るけれども。私共が、ほんなら、和賀心と、完璧な和賀心というものは、あんた、大変な事だとこう思うのです。ね。どんな場合であっても、喜びが崩れないと言う心なのだから、信心の喜びが、ね。平和の和という字を書いてあるから、例えば、その、まぁ、心が和んでおるといった様なことじゃない。何かあったら、もうこれが、いらいらするなら、もうそれは、和賀心の和じゃないと、御道でいう和は、というほどしにです。どんな場合であっても壊れないもの。ね。そして、どちらへ転んでも、喜ばれると言う心が和の心。だから、それを目指させて頂くという事が、金光様の信心。一生かかって、このことに取り組んで行くことなんだ。
ですから、そういう、まぁ一つの、何時も和賀心の過程に私共はあるわけなんだ。けども、何時も、やはり、向きだけは和賀心を目指させて頂いておる。ね。そういうね、あの、そういう心で、願わせていただいた時、神様は、もう、いちいち、それは、聞き届けてくださると言う感じが致しました。和賀心におかげがありというのじゃなく、和賀心で願うから、おかげになると言う感じでしたから、ね。ねもう、お願いしとるから、お任せしとるからと。その、お任せするほどしの、いうならば、心というものは、たいした心です。お任せしておるとじゃから。その、お任せをした、言うなら、心で、また、繰り返し願うという事。神様は、もう、そげん何べんでん願うなら、せからしかとおっしゃるような神様じゃないです。その証拠には、同じ事を繰り返し繰り返しお願いをしても、その度に、はいはい承知しましたと言わんばっかりに、オイサミを下さる。
今日、私、金光大神助けてくれと言えばという、その、助けてくれという事は願うという事なんでしょうけれどもね。本当に、願わにゃいかん。だから、願う都度にです、私の心の状態が、和賀心へ向かった姿勢であるかどうかという事は、確かめてみなければいけませんね。そら、どんなに、いらいらしとっても、腹が立っとっても良いですよ。けれども、そこん所を気付かせていただいて、私の心は、和賀心へ向かって進めておるのだけれども、まだ、未熟なものですから、いらいらしとります、腹が立っておりますと、それで良いのだと。ね。そしてその、できるだけ、平生心を以ってである。ね。ただ、そこんところに、ゆとりを持たせて頂かなければならないという様なことをね。私は、昨夜から、思わせていただいております。ね。
私はその、願うという事から、信心は始まると思うです、ね。そして、私は、最後まで、やはり、願いで終わると思いますね、信心は。もうこれは、もう願わんでんと、例えば、おかげは頂くです。けれどもね、願わんでもおかげは頂くけれども、また、願わにゃん事が次には出来とりますね。今言うように、夜、休んどってから、ふっと気が付いて、あのことも、いっちょ、お願いしとかんなんと言ったような事がありますもん。ね。その願いの内容としてです。お礼があり、お詫びがあるんだと言うように、今日、私は、願いという事を、非常に強く感じます。
普通には、お礼さえ申し上げときゃ良かという事、ね。もう本当に、お礼とお詫びに明け暮れておりますと。いかにも美しい。だから、これも有難いけれども、お礼を申し上げ、お詫びを申し上げさせて頂いて、願うことはないかというと、願うことはもう、次から次とあるという事。ですから、その、願う心がです。それからと言うて、ほんなら、金光大神の言うことに背かぬようにと、ここでは仰っておられるけれども、そういうことも、不徹底なものであるという事です。私共の場合。ね。ですから、一つ、和賀心。ね。いわゆる、和賀心で願うと言うと良いですけれども。和賀心になろうと努めておる心でという事になりましょう。ね。悲しい思いをすることもある。腹の立つ思いをすることもある。いらいらしておることもある。ね。けれども、これではならんという心と、ね。そういう心の状態がある。ね。和賀心に向かって精進させていただいておる。このような和賀心になりたいと願うておって、本当に、未熟な私でありますからと言う、まぁ、そういう心で願うという事。ね。神様が、それは、一遍一遍に、オイサミを下さる訳はなかろうけれども、お互いの場合、ね。けれども、そういう心で願うならば、神様が、確かに聞いておって下さるんだ。聞いて下さるといったような感じが強う致します。
此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。ね。私共が、願うことによって、天地金乃神様、金光大神がおかげ下さると言うわけにはいかんのです。やはり、おかげを下さるのは、天地金乃神様なんです。けれども、金光様助けてください。金光様とこう、言えば、ね。言うなら、天地の親神様も、一つの恩人としての義理があるから、金光大神のその、言うならば、保証人に対してです。おかげを下さる。ね。金光大神の、言うならば、ご信用に、天地から受けておられるところのご信用によって、おかげを受ける。天地金乃神のおかげを受けられるようになったと。そこんところにです、私は、御道の信心の、まぁ、なるほど、私共達ぐらいの凡人が、させて頂く信心だと思います。そういうところを、まぁ、庶民の宗教なんというふうに言うのじゃないでしょうか。これは、私は、あんまり当てはまらん。
今度、えー、何ですか、講談社かどっから出ておるでしょう、金光大神の、あれは、そういう様な、こう、庶民の宗教としてみておる、皆さん、是非一遍、お読み頂きたいと思います。いわゆる、御道の信者ではない宗教学者の手になったご本なんですけれどもね。ですから、何かその、高級なとでも言うでしょうかね、程度の高い信心でなからなければ、というようなことを言うようですけれども。幾ら程度が高かったっちゃですね。この、いわゆる、おかげが受けられないのでは駄目ですよ。ね。よしそら、そういう気になりゃ、おかげになったにしましてもです。それは、大変に至難なこと。ね。金光教の場合は、そうじゃないでしょう。教祖金光大神が、先ず、保証人になって下さり、と言うのですから。ね。それでいて、なら、おかげだけを出して下さるのじゃない。理解申して聞かせと言う、分らせていただいて、言うならば、天地の道理を分らせてもらい。天地の御恩徳を分らせてもらい。神恩報謝の生活が出来るようになり、天地の道理に合うた行き方が出来るようになる。ね。だから、その庶民の宗教というような言葉では、実をいうたら、最高の所に入っていけれる宗教ですから、言えないですね。けれどもその、ただ、金光大神のお取次ぎによって助かることが出来ると言うところにです。いうならば、見やすう、入っていけれる。そして、志向の所はね、いわゆる、最高の所に住んでいけれる信心なんです。ね。それを、簡単に、お取次ぎを頂いて、おかげを頂けれる道というふうに言うとです。何かこう、気安い信心で、何か低級のような感じがしますよね。けれども、実はもう、本当に、何と言うでしょうかね。その、天地の大理念とでも申しましょうか、に、基づいて現れてくるおかげであり、そういう生き方を教えられておるのが、金光大神です。
けれども、私共の場合、今申しますように、もう、とにかく、和賀心にさえなっときゃ、おかげ頂くんですけれどもです。それでもやはり、願うことは、ちょっと休んどって、ちょっと、あれやら思い、これやら思うと、願っとかねばならんことが沢山ある。そういう願いがですね。いうならば、簡単に出来れる。ほんなら、そういう願いが、簡単に出来ると言うて、ちょっとお願いしますと言うのじゃなくてから、そのところがです。いわゆる、和賀心に向かっておる、いわゆる、心の状態をもって願うところ。天地が、しかも、いちいち、うなずいて下さるほどしの、いわば、天地金乃神のおかげが受けられるようになったと言うのが、その事なんです。ね。こういう、私は、信心は他に無いと思うですね。素晴らしいことを説かれたり、素晴らしいことを教えられる。ね。だから、それによって、ほんなら、おかげを頂いていこうと言う道はあるけれども。例えば、天地の親神様がです。恩人と感じられる。そこに義理を感じられるほどしの宗教家は、かって、先ず、無かったと言う風に、私は思わせてもらう。ね。
だから、信心は出来んけれども、金光大神のお取次ぎのおかげによって、助かることが出来ると言うことになる訳です。そういう金光大神の、お取次ぎの働きというものを、頂き、現していくことが出来る。そういう金光大神の信心を、言うならば、ひた受けに受けさせて頂かねばならぬ。そして、金光大神の手になり、足にならせて頂くのが、私は、取次ぎ者だとこう思う、ね。ですから、金光大神の、ご信心というかね、心の状態というか。言うような心の状態に近い人ほど、素晴らしい取次ぎ者という事が言えるのです。それで、ここでは、ね。金光大神助けてくれというよりも、親先生お願いしますと言うのが早いと、皆さんが言うのも、その訳です。金光大神が、言うならば、私に、義理を感じておってくださる。ね。
私が、それこそ、なるほど、自分ながら熱心だったと思いますけれども、御道の教師としておかげを受けられるだろうと、人が言われると、それこそ、身震いするほど嫌じゃった。金光様の先生になるてんなんてんち言うことは。ぞうたんのごとと、もう、言いよりました。それが、何時の間にか、こう、十重二十重、身動きも出来んようになって、ね。神様が、私を取次ぎ者としてお取り立てて下さるようになった。ね。それで、私が、そんなに、まぁ、嫌でたまらんのを、神様はご承知だもんですから、もう、お前のおるところが御結界ぞと仰いました。私が居る所が。ね。だから、そこでおかげを頂いた。私が、寝床に入っとるなら、もう、寝床が御結界である。ね。そして、神様が、私に、約束してくださった。お前が願うならば、もう、どういう例えば、身が腐っていくような、例えば、病人、病気であってもね。お前の取次ぎなら助けると、神様が、私に約束して下さった。という事は、もう、どんなと言う意味だろうと思うですね。どういう、例えば、病人であっても、お取次ぎを願うて来る、助けてやる。だから、一つ、取次ぎの御用を、まぁ、してくれと言わんばかりのね。働きが、ずっとあった。
三代金光様が、お夢の中で、私の前に手をつかれてから、無言のまま、と言う様な事も、私は、そういう事であったとこう思う。ね。そして、まぁ、段々、段々です。もうそれこそ、ランニングシャツ一枚で、でおっても、神様を拝むことが出来ておった。けれども、段々、神様が教導して行ってくださるうちにです。これは、羽織も着らにゃいくまい、袴も履かにゃ行くまい、足袋もこりゃ、一年中履かにゃいくまいといった様な働きが始まって。そして、こういう、御結界に机もお供えが出来てきたのであり、この衝立も、全部、お供えで、いっちょいっちょ集まってきた。その前は、私は、応接台の前に座って、あーた方のほうを向いてから、お話をしたり、お取次ぎをさせてもらいよった、椛目の時代は。ね。そして、この御結界というものの形が、なるようになった。そして、右のほうで、色々文句が出るならば、左のほうに座ってお取次ぎすりゃ、誰も文句言うとはなかぞという様な事にまでなってきた、そして現在なんです。ですから、私と神様のなかに、いわゆる、金光大神とのなかに、そういう一つの、約束が交わされておりますから、ね。なるほど、親先生助けてくださいといや、助かるんだと、私は思うです。同じ事なんです、ね。
今日は、皆さんに、もう、願いが中心である。その内容に、お詫びもあれば、お礼もあるのである。今日は、そういう表現で聞いていただきました。いや、何故か、願わなければおれないことが、あまりにも沢山あるからです。けれどもその、願う心というものがです。腹が立っとっても良かれば、いらいらしとっても良いけれどもです。ね。いつもが、和賀心を目指しておるという姿勢だけでは無からなければいけない。神様、このように、和賀心を目指しておる私が、このように、いらいらしとっては、相すまん事でございますけれども、痛ければ痛い、痒ければ痒いことを願わねばおられないのである。ただ、腹の立っておる、そのまま願っちゃいけんち言うこと。いらいらしとる、そのまま願っちゃいけん。いつも、姿勢というものを取ろうとする。和賀心へ向かおうとする姿勢をもって願うという事。ね。そういう願いならば、神様は、ね。何かの印をもって、いちいち、聞いてくださると言う事をです。昨日から、今朝に掛けて、感じさせて頂いております。だから、願いの心の状態というものを、何時も検討しての願いでなからなければならない。そこには、ね。または、金光大神の言うことにそむかぬようにと言うておられますけれども、ね。そう言うてばっかり、実はおるのでございますけれども、と言う、あの、気持ちで、願えば良いわけなんです。そして、段々、金光大神の言われることに、ね。例えば、全てのことを「はい」と言えれれる。まぁ、手近なところから、それを実行していけれると。
先ほど、妊産婦に対する御理解を申しました。あの、一言づつでもですね。例えば、腹帯をしないと言ったようなことぐらいな事からでも、入らせて頂いて、ね。なるほど、おかげがいただけると言う体験をね。そして、最後の所、大変難しいことだと思うですよ。今の医学から言うたらもう、そんなことじゃいかんと言うのですから、最後の所辺りは。けどもあの、腹帯の事だけはですね、今はもう、腹帯をさせんほうが良いと言うとるそうですね。だから、段々、そういうことに、教祖様が仰っておる事が、医学の上でも実証出来れる日が、近い将来にあるだろうと思いますよね。医学も、段々、進んでいきよりますから。だから、そういう意味で、医学というのは、まぁだ、前進の過程にあるのだと、私は思うのです。五里霧中です。そして、本当のことへ、本当のことへと進んでいっておるという過程にあるのですから。本当言うたら、教祖金光大神が教えられることが、もう絶対のものなんですけれどね。私共は、けれどもやっぱ、そういう度胸が、こちらに無いから、金光大神の言われる事に、そむく場合もありますけれども、そこんところは、お詫びさせて頂いて、願うていかなければならんという事ですね。どうぞ。